ドキュメント'05

ドキュメント'05◇ゲームの中の戦争にスポットを当てる。全国の自治体が、残虐な内容を含むゲームソフト販売の規制に乗り出した。相次ぐ凶悪事件の加害者の少年たちが、暴力的なゲームに熱中していたからだという。テレビゲームのルーツは、実は原爆を生み出した"マンハッタン計画"にある。ゲームクリエーターたちはゲームの中で「戦い」をどのように見詰め、そこにどんなメッセージを込めようとしたのか。宇宙からの侵略者を倒していく大ヒットゲームを開発した西角友宏氏らに話を聞く。

こういうネタでTV番組をやっていた。以下、メモ書き。→以下は自分のコメント。

  • 初のゲームは核戦争の中で生まれた技術によるテニスゲーム。
  • スペースインベーダーの作者は、ゲームの原点はシューティングだと言う。
  • パックマン、あれはかじるであって食べるでない。

→言葉は大事、何らかの表現によって表現されるものも大事。発信する側も気をつけるべきだけど、受け取る側も気をつけないといけない。当たり前のことを当たり前のように思えていますか?(この当たり前は誰にとっての当たり前か。)

  • 人とのコミュニケーションの経験を積み、人を傷つけ人に傷つけられる繰り返しの中で傷つけない線引きを覚えていく。コミュニケーションは大事。

→コミュニケーションが大事なら、そのシミュレーションゲームというのはどうなんだろう。ゲームを疑似体験として捉えるなら、普段得られないようなコミュニケーションの疑似体験としてのシミュレーションゲームは有りということになる。型にはまったような奇人変人とのコミュニケーションを出来るゲームなんてないかしらね。

  • ファミコン、ゲームの中の戦いが家庭に。
  • マリオ。小説の中の冒険をゲームで。インタラクティブなゲーム。冒険していて遭遇したものにどう対応するかしたいか。

クッパのしっぽをつかんでぐるぐる回すのは確かにやりたい。

  • 湾岸戦争はNintendo Warsと呼ばれた。画面の向こうのバーチャルな戦いに見えるから。
  • しかし、マリオの作者はバーチャルであるかどうか自体は問題では無いという。例えば、ミサイルのターゲットの見せ方。TVであるという都合上見えないターゲット。

→ミサイルの被弾側にもカメラが回っているような戦争中継があったらそれは怖い。

  • 作家と同じ。残酷かどうかは演出の問題だと言う。 ピクミンは残酷だけれど、あれがうけたのは演出がそう見せないから。
  • だとすれば、「アメリカズ・アーミー」は。「フルスペクトラム」は。
  • シューティングゲームは狙撃技術の上達に直結しない。軍部の考えとしては大事なのは戦場における思考。

→軍がゲーム世代を取り込むために作ったゲーム。戦場における思考を体験してもらうためのゲームっていうのはありなんだろうか。疑似体験としてはありなのか?でも、戦場における雰囲気は感じることは決して出来ないと思うんだけど。人を殺すか殺さないかの所に大きな境界がありそう。理想的なバーチャルリアリティで同様のゲームを作って、本人が心の底から「人を殺してしまった」と勘違いできるレベルのゲームだったら良いのかもしれないけど。

  • 日本のゲーム人口は2700万くらいらしい。うち、未成年は1000万程度。

→どういう基準で数えたんでしょう。

  • 戦争ゲームだろうがゲームをあくまでゲームと捉える見方。戦争を扱ったゲームだから嫌だという見方。

→疑似体験としてのゲームは、日常とは切り離された全く別のものと考えることは出来ない。疑似体験の内容は何らかの形でフィードバックされると思う。間違っても自分は死なないし電源を切れば日常に戻れるという点ではゲームだけれど、ゲームをしてる最中で見聞きしたものを全く引きずらずに日常に戻るのは難しい。切り替えが上手ければ引きずらずにいられるレベルだろうか?
 ゲームと現実の線引きは当然のように出来るという考え方もあるけど、きちんと「線」の形で引けるかどうかは微妙かもしれない。まぁ、ゲームと現実との線引きが出来ていないなんて批判するPTAのおばさんのような人達の言い分は的外れだと思うけど。現実があって、ゲームがあって、その間にぼんやりとした中間部分がある。その間の部分を通して疑似体験であるゲームからフィードバックをする。ゲームから影響は受けるかもしれないが、ゲームの中で行う殺人が現実の中に直接入り込んでくるというのは言い過ぎでは。

  • ドラクエ。ゲームの中の戦いが感動を読む秘密は?
  • 見渡す限り全てが冒険の世界という原点。

ドラクエ8のあの視点は感動的。あれは冒険だ。次回作の構想に入っているということだし、ドラクエ9に期待。

  • 血を使わずにダメージで表現。
  • 殺すという表現をつかわないで、「やっつけた」と表現。

→「死亡」と「戦闘不能」の違い。Final Fantasyでは実は「せんとうふのう」と表記される。あれは死んでない。だから実はアレイズでも生き返らない。戦闘可能になるだけ。ここら辺は違いは小さい頃から何か感じていた。

  • 戦争とは何か、戦うことの意味は何か、という問いを考えるゲームとしてのメタルギアソリッド
  • 戦争に賛成するゲームを作りたく無い。そういう意見をを伝えるためには表現方法が必要。

→戦争であろうと、如何なる立場から見ても完全否定できるものとは考えない。人殺しも同様。でも、それでもやっぱ戦争とか人殺しを「いけないこと」だとか「いやなこと」「わるいこと」のように思うのは、どこかでそのような価値観に触れたから。ゲームじゃなくても本や映画などのメディアで伝えることは出来るとは思うけど、でもゲームだからこそ表現出来る部分なんてのもあるかもしれない。最近のゲームは映画のように綺麗なものもあるけど、映画とは違って疑似体験が可能だとするならば、ゲームだからこそ表現されうる部分ってのがあると期待できるのでは。

→ゲームが当たり前のように間近にあるようになる世代っていうのはここら辺からなんだろうか。自分はちょうど微妙なラインだと思っているんだけれど。

  • リエータとユーザ・プレイヤーはどのように振る舞うか。
  • とまらないバーチャルの進歩。

→歩みを止めずに進歩し続けるならそれはどこまでいくのか。発散したりしないのか。現実よりも現実的にはならないから現実の所で上から押さえられている…のだろうか?現実的の定義は変わるのかもしれないけど、現実よりも現実的になったりしないのかな。