ドラゴン桜

ドラマが最終回だったそうで。見てないけど、友達の日記にそう書いてあった。
「入試では答えは一つだが、人生には答えはたくさんある」 という台詞が作中にあったらしく、それを踏まえてその日記につけたコメントが以下。

「東大に入るための方法論を作った所で、その方法を実行するためにはその方法を理解している家庭教師並みの指導者が必要となるような方法であるなら、マンガやドラマで大衆に広めた所であんまり意味が無い。」
ということをきちんと理解出来ているor当たり前のものと感じている人が東大に入れるのかもしれない…なんていう入れ子構造が出来てしまっているのはちょっと残念かも。

「入試では答えは一つ以上(そしておそらく高々数個)必ず存在してくれているが、人生には答えが『無い』という可能性もある。おぉ、解の存在することの素晴らしさよ!」
と、理学部的呟き。

というか、そもそも人生の答えっていうのはどう定義されるのか。生まれた状態を初期状態として、周囲の環境に対応しながら、時には流されながら生きていけば、その辿ったパスが人生の答えになっているじゃないか、と言っても理解はされないのだろうか(されない気がする)。
人生の答えというのは、人生の方程式のようなものの解であるだけではなくて、人生の岐路における色んな選択肢のうち「良い」選択肢を選んだ解のことを指すのかな。というのは、「悪い」選択肢を選んだ解をも人生の答えとするなら、「人生には答えはたくさんある」なんていう台詞は自明などころか、東大入れなくてもそれで良いじゃんという風にも解釈しようと思えばできるから。確かに東大入れなくても良い人生を送れる可能性はたくさんあるし、それどころか東大入らない方が良い可能性もたくさんある。でも「諦めずに適切な方法論に従えば東大に入れる」というストーリーの締めとしては、東大入れなくてもそれで良いじゃんというのは主張の一貫性という点で良く無いと思われるので。まぁSMAPのオンリーワンの解釈を自分の都合の良い側に解釈出来る人なら、そういう意味でその台詞を用意したのかもしれないけど。
話を戻して、人生の答えというのを「良い」選択肢を選んだものと定義することにする。一つの選択肢で即バッドエンドっていうのは条件厳しすぎるだろうけれど、人生が終わってから自分自身の人生をハッピーエンドかどうか判定することは出来ないから、何ヶ月とか何年とかいう期間を振り返った時に、「あの時ああしていればもっと良い結果になっただろうに」と思うような分岐点が少ない時、その人生を人生の答えであると判定するのだろう。分岐点が少なく無かったら不正解と判定。
ただ、こう定義すると「入試では答えは一つだが、人生には答えはたくさんある」というのはちょっと無責任にも思える。本当に答えはあるのかね。無いという可能性もあるし、環境が悪ければ無い可能性の方が大きいかもしれない。
ドラゴン桜に意味が有るとするなら、それは東大に入る方法論が条件付きとは言えども存在するということか。東大に入ることを「良い」とする価値観を持ちながら、東大に入れる可能性なんて無いと思っている人に対してはおおいに意味があるはず。でも、その可能性をきちんとつかむためにはおそらくその可能性を妄信しなきゃいけないんだよな。ちょっと利用すれば新興宗教に利用出来そうで怖い。