政治家のそなうべき資格と覚悟
職業としての政治/マックス・ヴェーバー を読んだ
- 作者: マックスヴェーバー,Max Weber,脇圭平
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1980/03/17
- メディア: 文庫
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以下、メモ。
- 政治:暴力の上に基礎付けられている
- 服従における動機:恐怖と希望。
- 職業政治家。特に副業的政治家。
- fuer or von Politik(for or by):ノーマルな状態で持っている金銭的余裕による。財産が無ければ、政治をやりつつ、報酬を求めざるを得ない→金権政治をさせないためには、政治家の給料はきちんと保証しなければいけないということ;「余裕がない」と政治はできない
- 「革命国家ではズブの素人たちが、機関銃をおさえたおかげで行政権まで手に入れた」
- 法律:国王の権力が封建領主の支配を堀崩すための形式的手段
- 本当にすぐれたジャーナリストの要件として、学者の「才能(Geist)」と比して少なくとも同等の「才能」が必要
- ジャーナリストから政治家が出てもおかしくないものだが、あまり出ないのは、たとえば新聞に関する人は忙しすぎて「余裕がない」から
- 権力者が定期的に選ばれるようになると、政治は必然的に利害関係者による運営という形をとる
- 有権者を政治上の能動分子と受動分子とに分ける
- …ということは、運営の支援がある程度保証されるような状況があれば、小さな政府じゃなくて、小さな党が出来る?
- 小さな政党への変化がもしあるとすれば、満たされていた虚栄心が失われるわけで、利益や金よりもこっちの方が問題かもしれない。
- デマゴーグ。情緒的に語りかけるということ。
- 国民の情緒が洗練されているなら、ある種のセーフティの機構になりうる。国民の情緒が十分に維持されていないのならば、情緒的な基準というのはあてにならないどころか危ない。
- ワシントンの理念としてのアメリカ:「ジェントルマン」による支配
- 「こっちでなめてかかれる連中を役人衆にしておく方がこっちも気が楽なのさ」:1904年のアメリカの民主主義。こう言える条件は?
- 三つの資質:情熱*2、責任感、判断力
- 距離を失ってしまうことは、政治家にとっての大罪の一つ。距離を失わせる敵の一例:虚栄心
- 「仕事」としての政治に関する倫理
- 絶対倫理の一つの結果として、戦争ではなく平和の信用が失われることもありえる。ミクロに絶対倫理を振り回して、結果というマクロなものを無視していることに相当するだろうか。すると、前項の情熱が無いということになる。
- 問題の原因は「善からは善のみが生まれ、悪からは悪のみが生まれる」わけではないということ。
- 「心情倫理」と「責任倫理」:性善説と性悪説だろうか。絶対倫理は特に心情倫理をさすようだ。
- 問題の原因は「善からは善のみが生まれ、悪からは悪のみが生まれる」わけではないということ。
- 宗教と革命:信仰の闘争に参加した追随者はひとたび勝利を納めるや、いとも簡単に平凡きまわるサラリーマンに堕落してしまう
- それは、革命や闘争の勝利条件に精神的にプロレタリア(最下層民)化することが含まれているから。
- およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。
- 心情倫理は結果に対する責任が欠けているから、目的そのものが数世代にわたって傷つけられ、信用を失うことになるかもしれない。:悪魔の力。これを理解するには、修練によって生の現実を直視する目を持ち、耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つ事が不可欠
- 責任倫理に従って動く「成熟した人間」:(ルター)「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる」
- 心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではない→止揚の先に政治への天職を持つ人間?
- 自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中がー自分の立場からみてーどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな自体に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。