姑獲鳥の夏
- 作者: 京極夏彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/09/14
- メディア: 文庫
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京極のミステリ小説は、原典となるような何かとそれに対応する「論理」を持つ「妖怪」が背景にあると捉えているのだが、姑獲鳥の場合には原典は量子力学で「妖怪」は姑獲鳥。ここ一ヶ月程度の間に量子力学についての本をいろいろ読んでいるから京極堂*1の量子力学等々についての弁論に振り回されることが無くなった。はじめて読んだ時には多少なりとも疑問が残る点が多かった。京極堂の言ってることに疑念を呈しつつ、自分の量子力学への理解の程度を疑ったりもした。そういえば、清水明センセイの量子論の基礎を読んだのは姑獲鳥の夏を初めて読んだのと同時期だった気がする。
姑獲鳥の夏で、物語の構成に利用されている量子力学の性質は「完全な客観性は存在しない」ってことだろう。観測の精度を上げようとしても観測者自体の影響が無視出来なくなるような最小単位の存在…まぁ不確定性原理だけれど、それをマクロな系にアナロジーとして用いている。
今回読んで考える所があったのは量子力学よりもむしろ他の所。不可解な出来事を共同体が対処するために様々な民俗装置が作られるという点。結果があるんだから原因があるのだろう…という因果律が背景にして、理解不能なことを奇跡として閉じ込めるのと同様に、ある役割にその不可解な原因を押し付けるような形で装置が作られる。この装置の形成過程が生物の蛋白質の通じる所があるような気がした。
突然変異は絶えず起きていて、環境が変化すると新しい環境に対して適応度の高い個体の持つ遺伝子が支配的になり、残りの遺伝子が淘汰されていく。この過程の中で新しい蛋白質が構成される。この過程を「既存の環境からすれば不可解とも言えるような新しい環境が登場する。そのような新しい環境でも生物は生きているべきだと考えれば、それは各生物にとって結果であるべき。新たな環境でも生きているという結果があるからこそ、その原因となるような適応度の高い蛋白質が存在するはずという『因果律』を背景にして、その原因を押し付けられるような形で装置とも言うべき新たな蛋白質が作られる」と言い換えれば、民俗装置形成とのアナロジーを考えられないかな、と。
二つの違う出来事にアナロジーを考えることが出来れば、片方で成り立つことと似たようなことがもう一方でも成り立つ…かどうかは分からないけれど、ふとそういうことを考えてみた。
*1:京極のミステリの「探偵」、括弧が付くのは探偵が他にいるから