煽りと詐欺の境界線

「まずはほら、やってみろよ」と言われてやってみる。いくらやっても無理だったから、「なんだ、こんなの無理じゃないか」と反論をする。やってみろと言った本人は「そもそも『まずはやってみること』によってその問題を片付けられるなんては思っていない。」と白状する。この時、問題が持ちかけた人はその問題を解かせたいと思っているわけではなく、その問題に挑むことによって得られる何かを与えたいのかもしれない。

たとえば次のような例を考える。hogehoge問題というカテゴリ(そのカテゴリは実は曖昧なのだが)があり、「hogehoge問題Aを解いてみるといい。しかし、解くのも解かないのも君の自由だ」と出題者(太郎)に言われたとする。実は理論Aによって問題Aは(狭義)hogehoge問題としては不適当な問題だと見なされているのだが、問題を持ちかけられた人(次郎)はその不適当であるという事実を知らないとする。次郎は太郎の出した問題を解くために、太郎が持っている本を借りて勉強する。問題Aがそもそも何を言おうとしているのかが良く分らなかったので、理論B,C,Dを勉強する。
理論B,C,Dを勉強したことにより、次郎は問題Aに挑むことができるようになる。「この問題には不思議な点が多い」「そもそもどうやったらこの問題を解いたということになるのだろう」次郎は悩む。太郎に質問をしようと思い太郎の部屋に行くが、太郎は居ない。代わりに問題Aについてのメモを見つける。「こういう視点もありか」と次郎は悩み、新たな切り口から問題Aに対して挑んで行く。
しばらくして太郎がやってくる。「問題Aの解答を作ってみた。」次郎はそれを読み、気づく。「問題Aって、これってhogehoge問題なんですか?hogehogeとしてはトンデモでしょう。」太郎はこう返す。「(狭義)hogehogeとしてはトンデモであっても、これが新たなカテゴリの問題だと思えば、何か解答なのかということを考え、その解答を探していく過程は楽しかっただろう?」
太郎はhogehogeでは無い問題Aをhogehoge問題と言ったことについては良く無いことをしたかもしれない。しかしそもそもhogehogeとは何であるかきちんと定義されていなかったわけだし、太郎はぎりぎりの線で煽ったと言えなくも無い。そして次郎は問題Aに挑んで行く過程で色々と楽しむことが出来ている。

このとき、太郎のやったことは悪いと言えるかどうか。僕は別に良いと思う。次郎は駄目だったが、同じことを三郎がチャレンジすれば、hogehoge問題を定義し直し、どのような解答を用意すればそれが問題Aに対して適当かどうかを言うことはできたかもしれない。それは難しいことではあるかもしれない。誰にでも出来ることではないかもしれない。しかし誰だって楽しもうと思えば楽しめる問題だと思う。
多分僕が太郎のしたことをまぁ良いと思えるのは、「問題を楽しめれば良い」と僕が思っているからで、hogehoge問題大好きな人達や、騙されて貴重な金と時間を費やしてしまったなどと思うような人にとっては*1太郎は詐欺師以外の何者でもないのだろうな。




しかし、世の中にどの観点から見ても如何様にも詐欺師的には見えないもの、ないしは価値と金額がきちんと釣り合っているものというのはいったいどれくらいあるのだろうか。世の中には詐欺的なものは蔓延していると思えるのに、それに無自覚に動いてしまうと、金銭的・物質的な損害の他に感情的な損害を無駄に多く受けてしまうかもしれない。

*1:そう言う人のがマジョリティっぽい。